チェルノブイリは「私の痛み」なのです・・・
ナターシャ・ヴァラバーエヴァ(14才)
異国の地へ連れ出されても、チェルノブイリの傷跡は私達のもの
A・メリニコフ
・・・生き残った人々は,暖かい春の風を喜びました。しかし、この喜びがこのように断ち切られるとは思いもしませんでした。・・・
チェルノブイリが原因で手術を受けた子供達の様子をテレビで見ると、心苦しくなります。物心がついたばかりの、身体に障害を持つ子供達が恐ろしい病気に生きる喜びをもぎとられるのは辛いことです。・・・
汚染地区に住む住人達は、安全な場所に移住させられます。そこには私達の地区の村からの住人もその数に含まれています。汚染されて誰も住まなくなった村を歩くと、このような村がベラルーシにはなんと沢山あるのかと、悲しくなります。
多くの森には「汚染につき立ち入り禁止」とか「高濃度汚染地域」と書かれた看板が立っています。そんな森に生えているキノコやイチゴは膨大な量の放射性物資を含んでいます。夏になると、朝早起きしてカゴを持ち、森へキノコやイチゴを取りにいったり、森の中をぶらぶらしたりしますが、このように習慣になっていることをやめることはできません。でも、これはよくないことです!こんな森に、どのくらいの動物が生息しているの
でしょうか?動物達は汚染されたキノコやイチゴを常食としています。このことを考えると辛くなるのです。
人々にとって新しい土地に慣れるのは大変なことです。彼らは自分の故郷の野原、森、川にどうしても身を寄せてしまいます。新しい土地で生活するのは誰しも辛いことで、そのため彼らは荒れ放題になった村の暖房のない家、そして荒れ果てた庭に帰ってしまうのです。・・・
人々はチェルノブイリ事故のことを思い、心を痛めています。・・・人々にとって自分の捨ててきた家のことを考えるのは辛いことです。しかしチェルノブイリの事故がどれほどの命を奪ってきたかを考えるのはもっと辛いことなのです。・・・
チェルノブイリは私の痛みなのです。 (訳:丸山こずえ)
私のふるさとは、美しい森と湖のあるところでした。
ジェラノーヴア・タチアーナ
1986年4月26日にチェルノブイリ原子力発電所でおそろしい事故が起こりました。この事故が起こったとき私はまだ4才でした。そのころ、この事故が私にとって、おそろしいことになるとは少しも思いませんでした。
牛乳を飲むことを禁止されたり、イチゴやキノコのはえる森を歩くことを禁止されたりしたのです。また、みんなが なにかしら身体の調子が悪くなったり、しんどくなったりしだしたのです。
事故の前、私のおばあさんは、けっして生まれ育った村をはなれたりはしませんでした。私は、あの村と、色あざやかな心をなごませる花々でいっぱいの大草原をハッキリおぼえています。小さな村の家には、広々としたやさい畑がありました。道は砂をかためられ、うすぐらい森はナゾに満ちていました。
おばあさんがなぜ生まれ故郷のあのすばらしい村をはなれるのか、私には理解できませんでした。永久に生まれた家を去るというとき、おばあさんは、長い間立ったままその家を見つめていました。涙がおばあさんのりょうほほをつたって、その下でにぎり合わせた手に流れ落ちました。私にはどうしておばあさんが泣いているのかがわかりませんでした。
でも、ずいぶん後になって、自分が生まれ愛した場所からはなれるのがどれほどつらいことかがわかりました
生まれ故郷をすてなければならなかったのは、私のおばあさんだけではなかったのです。多くの人が永久に村をすてなければならなかったのです。クラスノポーリエ地区の多くの村が、立ちのきになりました。窓に板がうちつけられ、暖炉(ペチカ)だけがポツンとある家を見るのはとてもつらいことです。広々とした草原にも庭にも、楽しそうにあそぶ子どもたちのすがたは見られません。
事故のために多くの人々が病気になりました。そのほとんどがなおりにくい病気です。
ベラルーシの住んでいる地区の多くで、死亡する人が増えています。とても悲しいことです。これからさきも私たちになにが起こるのだろうかと考えると、思いしずんでしまいます。
子どもたちも昔のような明るさをうしなっています。私の学校のお友だちの多くが病気にかかっています。たくさんのお友だちが身体のしんどさをうったえています。ときには小学校から子どもが病院にはこばれることもあるのです。
本当にこのようなことがこれからも続くのでしょうか? もう元にもどれないのでしょうか? 私たちはどうなってしまうのでしょう? 将来、なにが私たちを待ち受けているのでしょうか?
ナヴィーク・ナターリヤ・ユーリエヴナ(11年生)
日本とベラルーシで20世紀にどんな悲劇が起こったのか、そしてどうやってまたなぜこのような大惨事を結びつけたのだろうか。まず、日本の文明の源と発展についてからはじめましょう。
日本の歴史的発展の特徴は東洋的文明特色を伝統的に守ってきていることと西洋的な特徴が同時に表れてきていることである。…(中略)…
1944年から1945年にイギリス、アメリカ軍との艦隊と、現地のパルチザン部隊が日本の占領していた地域のほとんどの地域から日本軍を追い出した。日本本土への攻撃の前にアメリカは日本に対して核兵器を使ってみることを決めた。核兵器は1942年からアメリカとイギリスで精力的に開発されており、1945年6月に実験が成功していた。アメリカの指揮官の当時の、またその後の言葉によると、このことについて、これは日本への上陸を目前に控え兵士達の命を守る期待があっての決定だった、と説明している。原爆の爆撃後は日本の抵抗意欲が壊滅的になるだろうと考えられた。しかし、これにはもう一つの目的も追求されていた。それは、他の国々、特にソ連邦に対し、その当時新しい超強力兵器の唯一の保持者であったアメリカの軍事的優位を誇示することだった。
1945年8月、原子爆弾が広島、長崎におとされた。最初で(そして最後の)原子爆弾の結果は恐ろしいものだった。二つの日本の都市はほとんど壊滅的で何万人もの住民が即死し、またその後長年にわたり、やけどや放射能による病気のために死んでいった。日本は予想通り、屈服させられた。ソ連のその当時(8月8日)の参戦によって、日本のその後の抵抗はほとんど不可能となった。日本はすぐに降伏の交渉をはじめた。この条約は9月2日に調印された。…(中略)…
20世紀の後半、科学技術革命と科学技術の進歩は新しい科学的発見をなすのに最適な条件を作り出していた。中でもロケット技術は特に高い発展を示した。宇宙への道は残念ながら犠牲を伴うものだった。1986年アメリカのスペースシャトル、チャレンジャーの発射時の爆発事故はその中でも最大規模だった。
1986年4月26日チェルノブイリのソビエト原子力発電所で悲劇が起こり、原子炉が爆発した。このため、数十人が即死し、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの広大な地域で環境が汚染された。核エネルギーの平和利用そのものは有益な結果をもたらしたが、チェルノブイリと同様の事故は残念ながら、時として起きているのである。…(中略)…
私たちの国ベラルーシで惨劇が起きてすでに長い時間が経ちました。今、原子力発電所と原子爆弾によってもたらされた恐怖と損害を思い出しながら、お互いを理解し、お互いを悼み、この不幸を分け合い、さらに他の人たちを援助しようと努めています。
こんな恐ろしい悲劇を味わったその人達だけがすべての窮状を奥底まで感じることができます。しかし、私はその恐怖を見るだけで、人々に起こった悲劇を理解しはじめるのにはじゅうぶんだと思います。
この悲劇の結果、多くの人たちが亡くなりました。私たちはこの人々について忘れてはなりません。なぜなら、これは私たちにも起こりうることだったからです。この悲劇はどこか特定の地域のことではなく、すべての民族に関わることで、みんなに共通することなのです。わたしたちはお互いに助け合い支え合わなければならないのです。この援助と支援はまた国境を越えなければなりません。現代、そういうことは難しいことではありません。日本の経済は、以上にまとめたようにたいへん発展しています。日本人は思いやりがあり、親切です。
どうして私はこういう結論に達したのでしょうか。それは簡単なことです。日本の人たちは私たちに、日本よりもずっと後に起こった問題を克服するために援助してくれているからです。悲劇の後には傷跡が残りました。ベラルーシにとってそれは取り残された村、放射能を浴びた人々、放射能により「障害」をもって生まれた子ども達です。チェルノブイリ原発事故と長崎・広島への原爆は、日本とベラルーシ、二つの国の人々の心を一つにしました。日本はベラルーシより発展していて経済発展の支援をしてくれ、わたしたちの心が元気を取り戻し、よりよい未来を信じることを助けてくれます。
イスパチェンコ・イリーナ(日本の小学生ぐらい)
チェルノブイリという町がウクライナにあった。この町には巨大な原発があった。ある晴れた4月26日に、人はみんな自分のお仕事をしていた。子どもは学校や幼稚園に、大人は仕事場へ急いだ。まだ誰も、どんな惨劇がこれから起こるのか知らなかった。
何時間か経って原発で爆発が起こった。ものすごい放射能が周りに散らばった。みんなは何も知らされず、自分のことをやっていた。子どもは外で遊び、大人は家の仕事をしていた。みんなにすべてを知らせたとき、みんなを町から移動させた。でも、放射能の雲は、ベラルーシの方に向けて漂ってきた。雨と一緒に放射能は地面に落ちてきた。ベラルーシではたくさんの村や集落が被害を受けた。16年が経ったが放射能の黒い跡はベラルーシの土地に今も残っている。
クプツォーヴァ・リーリヤ (小学生ぐらい)
1986年4月26日の朝、チェルノブイリ原子力発電所で起こった事故。事故の後、人は障害を持って生まれるようになった。すべてが大きくなった。チェルノブイリ事故の後、病院はただになった。大人も子どもも病気。わたしたちのところにはいくつかの村から人が移住してきた。今その村は空っぽになった。私たちのところは放射能が増えた。チェルノブイリの原発が爆発したとき、雲ができて、この雲がベラルーシにやってきた。人々は元気になるのにサナトリウムや外国に行く。キノコやイチゴは汚れているから、キノコやイチゴは食べちゃいけない。水も土も空気も汚れている。
マルコーヴィチ・ヴィタリー
どうやってこれは起こったのか。1986年4月46日、夜の11時にチェルノブイリ原発の原子炉が爆発した。最初に閃光がきらめき、その後爆発で放射能によるキノコ雲が立ち上った。次の日、たくさんのバスや自動車や兵士、消防士達が来た。彼らは放射能の場所からみんなを移住させはじめた。2日目は飛行機が放射能を落ち着かせるために空から水を放出しはじめた。この時、パイロットの操縦席の下には、セメントが置いてあった。それはセメントが、他のもののように放射能をすぐには通さないからだ。
100年経ったら放射能は減るけれど、放射能は今もこれからもずっとあります。
ティモヒーナヤ・エレーナ
1986年4月26日チェルノブイリ原発で第4号炉の爆発が起きた。わたしはそのころ生まれていなかった。私はもう少し後で生まれたので、そのことについてはママとパパが話してくれた。これはとても恐ろしい事故で、たくさんの人が死んだ。火事を消したときもだくさんの人が死んだ。風がそのチリを何キロも運んだ。チェルノブイリの街は他のところへ移された。放射能はわたしたちのところまで届いた。前にはクラスノポーリエはとても広くてたくさんの人が住んでいた。爆発の後、みんなとても眠くなって、頭が痛くて、弱くなった。雨の後、水たまりはいろんな色になるし、夏のまん中ぐらいに木に葉っぱは黄色くなりはじめた。すぐに、汚染された村から、人々を移住させはじめた。これはただ自分の家を捨てるのではなくて、生まれ育ったふるさとを捨てることだった。
プリヴァロフ・アレクセイ
だいすきなクラスノポーリエ、ナイチンゲールの深い土地、クラスノポーリエ。
僕はチェルノブイリ原発事故の後に生まれ、この痛みを知らなかった。庭の小さな木や色とりどりの小さな家はどこへ行ったのか。おばあちゃんと一緒におばあちゃんの子どもの頃の写真を見た。僕達が田舎に帰ったとき、親戚達がみんな集まって、この村の近くを通った。見慣れた木のあった場所には他の木が生えていて、おばあちゃんはとても悲しそうだった。僕もなぜか悲しくなった。
ジョーヴァヤ・ヤーナ
16年前私たちの故郷ベラルーシにチェルノブイリの灰が降った。みんな自分のお家を捨てて知らないところに去っていった。ここのクラスノポーリエにもたくさん空っぽになってしまった、昔、おじいちゃんやおばあちゃんが住んでいた村が残された。
放射能は味もにおいもないけれど、人の健康に害を与えるので危険です。放射能で、土も水も空気も汚れています。風が放射能を何キロ飛び散らせました。放射能のせいで私たちはサナトリウムや外国で療養します。何年も経ったけれど、私たちの町はこの出来事を忘れていません。
アルテョーメンコ・イリーナ
1986年4月26日チェルノブイリ原発事故が起きました。私はそのときまだ生まれていませんでした。このことはママとパパから聞きました。これは恐ろしい惨劇でした。たくさんの人が死にました。火事を消した時にも人が死にました。みんな泣きました。チェルノブイリ、そこでは人々はほとんど助かりませんでした。私たちの地域では村が少なくなりました。放射能のせいで移住したからです。私たちのところには外国の人がよく来ます。子どもは外国やサナトリウムに行きます。私たちはみんな病気です。みんな子どものこと世話をしています。私たちの空気は大変汚れていて、貯水池も汚れています。一番怖いのは放射能が目には見えないことです。
16年が過ぎたけれども、私たちはあの恐ろしい惨劇のこだまをまだ感じます。
ザトゥラーノフ・アルテョム
目を閉じると爆発が見える。みんなパニックになっている。原子力発電所の上にはまっ黒いキノコ雲が浮き上がっている。それを風がつかまえて、あちこちへ運ぶ。風がさらに放射能を運び去らないうちに雨が降って、すべての放射能は地面に落ちた。チェルノブイリの事故から16年が過ぎたけれど、おじいちゃん、おばあちゃんたちはみんなこの日のことを覚えていて、みんなに話している。
(作者の名前?)
悲劇の後、何週間もチェルノブイリ原発事故についての記事が新聞にたくさんでた。そのうちの一つを読んだ。そしてとても怖くなった。
ヴァシーリー・ミハイロヴィチは休憩して日なたぼっこをしようと中庭にでた。小屋の屋根に寝転がり、眠ってしまった。目が覚めたとき、まるで黒人のように真っ黒になっていた。そこで、隣に行って言った「南の方へ行ったってこんなに黒く日焼けはしないよ」。それだけ言ったとき、倒れてしまい、嘔吐し、水をくれ、水をくれと叫んだ。隣の人は救急車を呼んだが、病院に行く途中で亡くなってしまった。
スモリャチコーヴァヤ・クスューシャ
16年前、1986年、チェルノブイリの原子力発電所で、爆発が起きました。この瞬間、いろんな金属のものが空中に飛び散り、ロシアやベラルーシまで降り注ぎました。
ある日私たちは、おばあちゃんのところへ行きました。向こうについて、ちょうど、この日に原発で爆発が起きたことを思い出しました。そしてこのことについて話しました。おばあちゃんは、「そのとき窓を開けたら、突然頭がぐるぐる回って、そうすると不意にラジオで今日原発で爆発があったと言うもんで、それでどういうことかわかった。それでおまえのお母さんとお父さんを呼びに行ったら、二人とも頭が痛くて、やっとの事で帰ってきたんだ。それから、この日が来るたび、いつも頭がグルグル回る気がするよ。」と話しました。こんな話を聞いて、私はうちに帰りました。
(訳:町田三美)
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