チェルノブイリ原発から北西40kmのベラルーシ共和国ゴメリ州ナローブリア出身。事故当時、夫と幼い二人の息子と暮らしていた。ナローブリアは高汚染地(福島の「避難区域」と同レベル)だったが、ソ連政府は一般市民も「生涯350ミリシーベルトまでは許容される」(注)との施策をとり、人々は住み続けた。住民運動の結果、「チェルノブイリ法」(1991年)が制定され、同地区は「移住対象地域」となり、首都ミンスクの集合住宅の権利を得て家族で移住。慣れない都会で「ゼロからのスタート」だった。同じような境遇の人々が次第に連絡を取り合い「移住者の会」を結成。 「事故15周年」(2001年)に「救援関西」の招聘で来日。欧州各地でも体験を語り「核はコントロールできず、使ってはならない。誤りを繰り返さないで」と訴えている。 [注:国際放射線防護委員会(ICRP)の当時の一般公衆の被ばく限度が年5ミリシーベルトで、その70年分で「生涯350ミリシーベルト」とされた。]