東海村JCO臨界事故糾弾! 事故を招いた
電力・原子力産業の経済性追求
プルサーマル中止、原発新増設反対!
原子力政策の抜本的転換を求めよう!
原子力防災新法・原子炉等規制法改悪反対!
9月30日に起きた東海村JCOのウラン燃料加工工場転換試験棟での臨界事故は、チェルノブイリ事故以降立て続けに起きた、美浜2号事故(1991年)、もんじゅナトリウム火災事故(1995年)、東海村アスファルト固化施設爆発事故(1997年)等に引き続き、日本のプルトニウム利用政策、原子力推進政策に深刻な打撃を与え、これまで通りには推進できない状況に陥っています。
しかし、事故の責任を負うべき政府と電力・原子力産業はその責任を回避し、若干の手直しで、あくまでプルトニウム利用政策、原発推進政策を押し進めようとしています。
関西電力などはプルサーマル計画を強行しようと目論見、政府といっしょになってCO2削減を口実とした原発新増設を画策しています。
関西電力の強硬姿勢と対決し、MOX燃料製造欠陥問題や立地点買収問題で徹底した批判を組織し、プルサーマル推進、原発新規立地、使用済燃料の中間貯蔵施設立地、美浜1号の定検強行による寿命延長などに対して、対関電署名を軸に大衆的な反対運動を強化していきたいと、私たちは考えています。
これらを東海臨界事故の批判と結びつけて展開していきたいと思います。
危険な高線量被曝を押しつけられた労働者
JCO事故時にウラン溶液を沈殿槽に注入する作業に携わっていた3人の労働者は、異例とも言える高線量を被曝しました。
現在無菌室等で治療中の大内さん、篠原さん、横川さんの被曝は、主に事故の瞬間にあびた中性子線によるものと考えられ、それぞれ被曝線量は17シーベルト、10シーベルト、3シーベルトとされています。
最大線量の17シーベルトは広島原爆の爆心地から700m〜1kmの地点での中性子線量に相当する極めて憂慮すべきレベルです。
1954年ビキニ環礁水爆実験で被曝した第五福竜丸の乗組員の最大線量は約6シーベルトと推定されています。今回はその3倍も被曝したのです。
チェルノブイリ事故では0.8〜16シーベルト被曝した115人のうち6.1シーベルト以上を被曝した20人全員がのちに死亡しました。
たった1ミリグラムと推定されるウラン235の核分裂によってこのような事態がもたらされたのです。広島原爆で核分裂を起こしたウラン235は約1kgです。通常の原発が1日3〜4kgのウラン235を核分裂させ、1年間で広島原爆約1000発分の放射能を生み出していることも合わせて考えると、原発重大事故が起こればいかに凄まじい結末をむかえるかが推定できます。
他の労働者等も高い線量被曝を強要された
科技庁によれば、3人を含めて労働者・住民69名が事故時に被曝しました。
中性子の放射線荷重係数を10とした場合、被曝した他のJCO社員56人のうち50ミリシーベルト以上が十数名で、最高は230ミリシーベルトにも達しています。(ちなみに自然界からの放射線被曝量は年間約1ミリシーベルト)
臨界事故と知らされぬまま出動した、消防隊員3名の被曝量は30〜39ミリシーベルトとみられます。いったん原発事故が起これば人命救助にあたる消防隊員も被曝を余儀なくされることが事実で示されました。
JCOに隣接する建設資材の会社で作業していた人など7名の被曝量は26〜91ミリシーベルトと推定されます。
実際には、これら以外に他のJCO社員をはじめ計百数十名が事故時に被曝しています。
緊急作業で高線量被曝が強要された
事故を終息させるために「決死隊」として沈殿槽の冷却ジャケット内の水抜きとホウ酸注入
作業にあたったうち24名が被曝したとされています。これ以外に作業にあたった3名の運転手は3.526〜0.848ミリシーベルトを被曝したものの「被曝者」とは認められていないのです。
この作業は原子力安全委員会での激論の末、「緊急事態なのだから、暫定的に限度線量を
200ミリシーベルトにしてでも…」との強引な意見の出る中、強行されたものです。
その結果、水抜き作業の18名中17名が20ミリシーベルトを超え、うち8名が放射線作業従事者の年線量限度50ミリシーベルトを超えてしまいました。最高の119.79ミリシーベルトは緊急時被曝線量限度100ミリシーベルトを超えるもので、もう一人の98.35ミリシーベルトも限度ギリギリでした。
原発の運転ではこれらのような生命にかかわる非人間的な行為が、平気で無理矢理強制されることが、今回の臨界事故で改めて示されました。高線量の緊急作業が避けられないような原発はそもそも運転すべきではありません。
何も知らされず避難し、退避し、中性子線を被曝させられた周辺住民
周辺の住民は、当日午前10時35分の臨界反応で瞬間的に中性子線をあびました。熱中性子は秒速2.2km、高速中性子は秒速1.4万kmという高速で、ほとんどの物体を通り抜け、遺伝子DNAをズタズタに切断し破壊します。細胞や血液中の塩分のナトリウムを放射性のナトリウム23に変え、人体を放射化させます。
その後10月1日午前6時半頃まで20時間続いた核反応状態の間にも中性子線は沈殿槽から飛び出し続けました。
しかし、周辺住民は事故に関するくわしい説明もないまま、避難や屋内退避の状態のまま、知らぬ間に中性子線をあびせられ続けたのです。
350m圏内で避難した人でもJCO近くの住民は、避難するまでの5時間だけで数十年分の自然放射線相当を被曝しています。
JCOからわずか550mの那珂町立本米崎小学校では、事故の2時間後に東海村が行った屋内退避を呼びかけたマイクの広報を聞いて那珂町役場に問い合わせたものの那珂町役場が事態を知らず、校庭にいた小学生が強い中性子線をあびました。結局、小学生たちも何も知らされぬまま、被曝し続けたのです。
東海村の住民が避難したコミュニティーセンターはJCOの風下にあたり、放射性希ガスがこのあたりを通過したために住民は避難先でも被曝させられました。
結局、350m圏内から避難した村民と、10km圏内で屋内退避した住民は「防災体制」の名の下に中性子線と放射能雲による被曝を押しつけられたのです。
事故を引き起こしたJCOのコスト重視、リストラ推進の姿勢と国の放置責任
事故は3人の作業員がウラン溶液をバケツで沈殿槽に注ぎ込むという作業の最中に起きました。当初、彼らが間違った手順で作業していたことだけが原因であるかのような報道がなされました。
しかし、その後明らかになったとおり、バケツを使うという手順はJCOという企業自らがすすめていた方法であり、その「裏マニュアル」は政府に申請していたものとは違っていたものでした。JCOはコスト重視の立場からこの方法を推奨していました。JCO自身に事故発生の責任があります。
科技庁は、その違反を十数年見逃していたのです。転換試験棟の「保安規定順守状況調査」は1985年から1992年まで8回、毎年行われましたが稼働中の調査は1987年だけで、他は休止中でした。その1987年の調査でも見逃していたのです。
アスファルト固化施設爆発事故後1998年4月から、運転管理専門官が核燃料サイクル開発機構(旧動燃)に常駐することになり、JCOの転換試験棟を2時間ずつ2回巡視していますが、運転休止中で現場作業は巡視していません。しかも、ウラン加工施設の巡視は法的に定められたものではなく職員の自主的調査にすぎないのです。
関西電力などの原子力関連企業に見られる、経済性重視の原子力推進姿勢が極めて危険なものであることが、あらためて国民の前に示されたのです。
最初から国が認めていた危険な手抜き設計
しかも、1985年に稼動を始めた転換試験棟は始めから施設を大幅に省いた設計で建設され、それが事故の根本的な原因となっていたのです。
その上、科技庁と原子力安全委員会はそれを1984年に認可し、手抜き設計の危険な施設の稼動を許していたのです。
本来の手順では、溶解塔−抽出塔−貯塔−沈殿槽−溶解塔−抽出塔−貯塔−製品(ウラン溶液)となっていました。あとの溶解塔から貯塔までの手順はその前の手順と同じ施設を使うことになっていました。本来なら、転換試験棟に溶解塔、抽出塔、貯塔を2つずつ設置しなければならないところです。
しかし、国へ提出した申請書ではこれらを1つずつだけ設置することになっていたのです。工場建設のコストを削減するためです。国は経済性追求に重きを置く日本核燃料コンバージョン(JCOの前身)の要求を追認したのです。
しかし、溶解塔では1サイクルめでパイプに不純物が残ります。不純物のないウラン溶液を作るためには、2サイクルめの溶解塔ではその不純物をあらかじめよく洗浄するなどの手間が生じます。
そこでいわゆる「裏マニュアル」が不可避的に登場します。
溶解塔の洗浄などの手間を省くため、溶解塔ではなくバケツにウランを入れて溶かす作業が、最初の頃から行われていたのです。この方法はJCO社員のアイデアを会社側が公に取り入れたものだったのです。バケツで溶解したウラン溶液はポンプを通して抽出塔−貯塔の順に送られたのです。
今回はこの「裏マニュアル」さえも守られず、ウラン溶液が沈殿槽へ投入され、臨界事故に至りました。
貯塔であれば起こらなかったであろう臨界事故が、沈殿槽でなぜ起こったのでしょう。
沈殿槽は、貯塔にたまった硝酸ウラニルとアンモニアを混ぜて撹拌し、重ウラン酸アンモニウムを沈殿させ取り出す機器です。
臨界事故を防ぐ方法には各機器の形を制限する「形状制限」と、機器にウランを入れる度にその量を制限する「質量制限」があります。形状制限を行うと各機器の処理能力が落ちます。そのため沈殿槽には形状制限が施されていなかったのです。
リストラ・コスト削減の中、焦った手順に走る
3人の作業員はその「裏マニュアル」にも書かれていない手順を事故当日行ったのですが、バケツによるウラン溶解では指示されていたとおり、2.3kgUの質量制限を忠実に守っていました。そして均質の製品を作ろうとバケツ7杯分のウラン溶液を沈殿槽で撹拌しようとしていたのです。
実は、前日9月29日の仕事が予定より遅れており、彼らは焦っていたのです。事後に迫る新人研修に間に合わそうと、貯塔ではなく沈殿槽でウラン溶液をかくはんすることを思いついたのです。
JCOのリストラ策も進み従業員への無言の圧力が職場を包んでいたことは想像できます。仕事の遅れを焦る3人は、3時間かかる貯塔での窒素ガスによるかくはんをやめ、30分で終わる沈殿槽でのプロペラ式かくはんに踏み切りました。
しかし、バケツに2.3kgUずつに分けて注ぎ込む質量制限は守っていたし、バケツ7杯分を沈殿槽に入れても「大丈夫だろう」と言われていたので、3人は臨界事故の危険など微塵も感じなかったことでしょう。
3人は職場ではスペシャルクルーという班に属し、排水処理を主な職務としていました。ウラン加工業の低迷、売り上げ激減という中で、スペシャルクルーは本務以外も受け持たされ労働者減の職場で人手の足らない仕事を受け持っていたのです。今回はたまたまウラン溶解の作業が回ってきたわけです。臨時に回された職務への十分な教育もないまま、臨界事故の危険など3人は知りませんでした。
電力がウラン燃料のコスト削減を要求、リストラを強制
関電など電力各社は原発の経済性を追求するため、JCOなどウラン燃料各社にコスト削減を要求し、安価な海外発注を増やし、JCOへの発注を減らしていきました。
JCOはそのもとでリストラを押し進め、1984年に約180人いた従業員は1999年現在約110人にすぎません。
JCOでは24時間体制ではたらく4班以外に、排水処理棟に5人のスペシャルクルーが配置され、今回被曝した3人はこれに属していました。リストラの中でスペシャルクルーは不慣れな転換試験棟の作業に組み入れられたのです。
濃縮度20%未満で質量制限する必要を知らなかったお粗末な国
科技庁は貯塔で大量にウラン溶液を処理したのが申請書に違反していると主張していますが、それはウラン濃縮度が20〜50%の場合であって、20%未満の場合については、貯塔で形状管理することになっており質量管理は義務づけられていません。最終製品としてのウラン溶液をつくる最終工程は申請書そのものに記述がないのです。しかも、ウラン燃料加工施設で5%以上のウランを扱う場合の安全審査指針もないのです。指針がないまま「安全審査」が行われていたわけです。
これらは明らかに科技庁や原子力安全委員会の安全審査上の欠陥です。どうしようもなくしみついた経済性追求の追認、安全無視の体質は抜本的な変革抜きには直りません。
科技庁の岡崎事務次官が辞任しましたが、原子力安全審査の中身と体制の全体が問題なのです。
事故後独自の行動を強行した自衛隊・警察
事故後、自衛隊と警察は独自の判断で行動しました。
防衛庁の野呂田長官は政府の9月30日午後9時の第一回対策会議後「人もモノも可能な限り現地に集めよ」と指示し、橋本茨城県知事の要請もないまま、午後11時50分には大宮市の化学防護隊が遠路はるばる東海村に向かいました。
自衛隊は中性子防護服などを持たないため何もできぬまま引き上げましたが、臨界事故を利用して「出動」訓練が行われたのです。
茨城県警は事故当日昼過ぎに、現場付近を立ち入り規制し、政府に先駆けて対策本部を設置しました。
これらの動きを通じて、10km圏内屋内退避、1日間のJR運休、常磐道6時間通行止めなどが遂行され、事実上の住民封じ込めが行われたのです。
「真の防災」は原発を停止させること
事故直後から、原子力防災を強化せよとの大合唱が国会の野党からもわき起こったことは由々しき事態です。
チェルノブイリの事故で250kmも離れた町や村でガンや白血病が増えていることは周知の事実です。
中性子線は何ものをも瞬間的に通過し、いかなる人も逃げられないことは明白です。
物事を真剣に見据えれば、「真の原子力防災」は原発・核燃料サイクルの停止であることは明らかです。
ニューヨーク市から100kmのショーラム原発は何百万人もの市民の避難計画を立てられないため、ほぼ完成しながら閉鎖されました。関西には100km圏内の福井に15基の原発があります。なぜ日本ではこのようなことが許されるのでしょう。
原子力防災新法は国民を欺くため
政府は11月12日、JCO臨界事故への対応として原子力災害対策特別措置法案(いわゆる原子力防災新法)と原子炉等規制法改正案2法案を急遽国会に提出しました。
特別措置法案によると、原子力施設周辺に防災拠点の「オフサイトセンター」を設け、事故時には対策本部を国と自治体が共同で立ち上げ、国主導で退避勧告などの指示を出すというものです。首相から権限の委任を受けた現地本部長は自衛隊の派遣も要請できるとしています。また科技庁と通産省に「原子力防災専門官」を置き、原子力事業所に配置するとなっています。
原子炉等規制法改正案では核燃料施設を定期検査の対象に加え、主要な原子力施設に加工施設の定期検査に従事する「原子力保安検査官」を置くなどとしています。
これらは、JCO事故後急速に高まる原発への不安感を和らげ、コテ先の原子力防災で重大事故が起きても大丈夫だという幻想を振りまこうとするものです。
また、防災新法案はこれまで「絶対に起こらない」としてきた原発事故による労働者・住民の被曝を認め、逆に「防災」という名のもとに労働者・住民に被曝を押しつけようとするものです。
「原子力安全審査体制の強化」と称して原子力安全委員会事務局の人員増や建設〜運転段階の監視強化策が出されていますが、設計や許認可の原子力規制内容そのものは強化されません。米NRCがスリーマイル島事故後やったような規制強化をやると原発を推進できなくなるからです。単に監視を強めるだけなのです。JCO事故をまねいた根本原因は国の安全審査が企業の経済性追求を追認していたことにあるにもかかわらず、安全審査の根本的見直しは無視されています。政府はいまの国の安全審査そのものは反省もせず、手を付けないで、今の延長線上で原子力を推進しようとしているのです。
政府の原子力災害危機管理関係省庁会議は「オフサイトセンター」設置などに約1300億円をつぎ込む補正予算要求をまとめています。このような「防災特需」とも言える対策は原発立地点での不安や不満を少しでもこのバラまきで緩和しようとするものです。原子力推進の陳腐な常套手段を国はまたもや行おうとしているのです。
事故時に住民封じ込めを狙う防災新法
また、防災新法は危機管理と称して原発事故時に住民を地元に封じ込め放射能を浴びせ続けるためのものです。そのために自衛隊を動員しようとしているのです。
これは、日米ガイドライン関連法、盗聴法、住民台帳基本法など、侵略と国民管理に向かう危険な動きと一体のものです。
JCO事故以前から、原発のテロ対策などの危機管理と称して検討されてきた措置と軌を一にするものです。
プルサーマルと原発20基増設をやめさせよう
原子力防災新法などによって政府は日本のプルトニウム政策と原子力政策を維持させようとしていますが、JCO事故での企業と国の責任を明確にさせ、原子力政策全体を転換させることが求められています。しかし残念ながら、今の国政からは全面的な転換をすぐさま勝ち取るわけにはいきません。プルサーマルと原発20基増設、老朽原発の寿命延長が当面の焦点であり、これらの一つ一つを中止させていくことが大切です。東海臨界事故が暴いた日本の原子力政策と推進体制の黒いウミを徹底的に絞り出し、下からの反対運動を粘り強く作っていきましょう。
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